規律正しい、厳しい、でも残酷なこともするというイメージがあるかもしれません。最初の2点は良いとしても、最後の点は、当時GHQが行った、「日本軍は侵略戦争を起こした悪い軍隊だ」という、洗脳がかったプロパガンダや教育の影響ではないでしょういか?
負けたら大変なことになるので、勝つためにはどの国も荒いことをするのは当然かもしれません。戦争とは、兵士の殺し合いです。でも残っている資料を知れば知るほど、日本軍(人)は、規律正しく、厳しく、そして敵国に対して温情に厚いことが分かってきます。
エリザ・ルアマー・シドモア(3) 地理学者、著作家、ナショナルジオグラフィック理事
1900年の北清事変(義和団事件)で、日本の軍隊が武勇、規律、装備、敗者への人道的処遇の点で他国より優っていて、卓抜した愛国心を発揮したと絶賛。
日露戦争で勝利を収めた日本の乃木将軍は、敗戦国側のステッセル将軍と会見をしました。その際に、アメリカのジャーナリストが映画で記録を残したいと許可を求めたそうです。乃木将軍は、「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が後世に残るようなものは撮らせるわけにはいかない」と拒み、「会見後、我々が友人となった後の写真を1枚だけは許す」として残っているのが右の写真です。
ステッセル将軍は、その後敗戦の責任を問われて銃殺刑を宣告されたそうですが、それを聞いた乃木将軍がロシア皇帝に手紙で、ステッセル将軍がいかに祖国のために善戦したかを訴え、心を動かされたロシア皇帝は銃殺刑からシベリア流刑へと減刑したそうです。
さらに乃木将軍は、ステッセル将軍の残された妻と家族に私費で援助を送り続けたそうです。日露戦争で捕虜となったロシア人は、将官24人、将校2.222人、合計7万9.367人にも及んだそうです。(陸軍省「明治37,38年戦没捕虜取扱顧末」)
約8万人のロシア人捕虜は日本全国29ヶ所の収容所に収容されました。軍事通信の青年士官だった、F・クプチンスキーの書いた手記には、日本側の待遇の良さについて多く書かれています。
収容所の将校たちは不遜な態度だったそうですが、医師や看護婦は過労で病気になるほど介護に努力をしてくれたため、”ロシア人たちはこの献身的な働き手にどう感謝したらいいのだろうか” という言葉を残しています。
さらに...
1等車で収容所入り(随伴の市長は3等車)
慰問者や訪問者の受け入れ
運動会や芝居などの主催
温泉や料理屋への出入りは自由
最高水準の医療...等の厚遇。
”こんなやり方では、捕虜収容所のある地方で育った少年たちが捕虜を恥辱としなくなる” と文句が出たほどだそうです。
”松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本” 小田川研二訳、中央公論社。
同時期のヒュードル・レンガートによる、”一青年将校の戦争及び牢獄印象記” / ”旅順籠城・剣と恋” 高須梅渓・加島汀月訳、啓成社では、松山での捕虜生活で、16歳の日本人女性と恋に落ちて日本語が読み書きできるようになる話が出ています。
他にも、バルチック艦隊の水兵、ノビコフ・プリボイの ”ツシマ” や、京都の知恩院で捕虜生活を送ったウラジーミル・セミョーノフ海軍中佐の ”ツシマ会戦” などが邦訳されて、日本にいた捕虜のほとんどは、生活面の自由を享受し、皇室から庶民にいたる日本人の同情を受けていたことが分かります。
柴五郎 陸軍大将
日英同盟のきっかけを作った影の立役者としてイギリスでも有名。1900年、北清事変(義和団事件)にて、欧米列強諸外国公使館を襲う約20万の義和団の攻撃から、3千人以上の公使館員、クリスチャンをわずか500人足らずの兵士で最後まで防ぎ守る。陸軍士官学校3期生で、秋山好古と同期。
「日本兵が最も優秀であることは確かだし、士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。わがイギリス水平がこれに次ぐ。しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」
イギリス公使館の公使、ランスロット・ジャイル
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄著 徳間文庫
「少 なくとも500名の兵を必要とする王府の城壁を守るのに、わずか十数人の義勇兵しかいなかったが、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、 いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下を組織化し、前線を強化した。彼はなすべきことは全てやった。自分はこの男に傾倒してしまった。自分は
まもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるであろう。 ...なぜか自分は日本兵のそばから離れることができなくなってしまった」
「小林寿太郎とその時代」 イギリス義勇兵、シンプソン
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう) 陸軍中将
ドイツ・ナチの迫害から逃れて、シベリア鉄道のソ連領オトポール駅で足止めをくらって難民化していた数千~2万人ものユダヤ人に対して、満州総裁の松岡洋右を説得して特別列車で無料で輸送、ビザの発給を協力に働きかけて助ける。
関東軍司令官、上田謙吉大将に:
「小官は小官のとった行為を、決して間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然取るべきことをしたに過ぎない。たとえドイツが日本の盟友であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」
東條英機参謀長に:
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることを正しいと思いますか」
「指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎」
早坂隆 文春新書
「世界から絶賛される日本人」
黄文雄、徳間文庫
佐久間勉 海軍大尉、第4潜水艇長
日露戦争の際に潜水艇長を含む14名を乗せたまま、第4潜水艇が沈没、2度と浮上できずに全員死亡。
このような場合には普通、乗組員は我先にハッチに殺到するところが、全員持ち場を離れずに息途絶えていた。佐久間艇長は遺書を残し、そこには素晴らしい名文で、必死に修理を行なったもののかなわず、自分の最後の使命として遺書を書き残すとあり、39ページにわたって詳細に記録が残され、部下の遺族に援助を依頼し、自分の非を天皇陛下にお詫び、この事故を今後の轍として鑑にしたいと記した。
このことは当時の新聞紙上に掲載され、その内容は米、英、独、豪などの国々まで伝わり、国内よりもむしろ海外にて、各国の海軍士官教育に典範として用いられる。
「佐久間の死は、旧い日本の厳粛な道徳、サムライの道、または武士道を代表した」
アメリカ軍事専門家、ハンソン・ボールドウィン 「会戦と海難」
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
鈴木敬司 陸軍少将、「南機関」機関長
中国人、インド人を使ったイギリス軍に支配され、「外国人による搾取は上層から下層まで、あるゆる方面で暴虐さをもって行なわれた。巨大イギリス企業は上等の部分を全て独占し...(バー・モウビルマ初代首相)」の状況から、日本軍がビルマ反英独立運動を支援。ビルマ独立後の軍事の人材を養成するための特別機関である「南機関」が作られた。
ビルマ独立運動に身を投じていた青年志士30人が集められ、海南島で1年間の軍事特訓が行なわれた。中心人物となったのがアウン・サンで、「日本の軍事訓練は厳し過ぎた。何度か自殺を考えるほどだった。しかしラングーンが落ちた時、我々は間違っていないことを確信した。」 とコメントしている。
その後そこにビルマ人青年約200人、大川周明塾の日本人青年30人が加わり、ビルマ独立義勇軍(ビルマ日本独立混成義勇軍)、BIAが編成された。大将が鈴木敬司、少将がアウン・サン。
日本の敗戦色が濃くなり、アウン・サンはビルマを生き残らせるためにはそれしかないと日本軍を裏切って攻撃。仲間の多くは日本に亡命。但し戦後、鈴木敬司少 将がビルマに連行され、BC級戦犯として裁判にかけられそうになった時にアウン・サンが、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と救う。
死後の1981年に、ビルマ最高の栄誉である「アウン・サンの旗」勲章を贈られている。
「世界から絶賛される日本人」
黄文雄、徳間文庫
今村均 陸軍中将「インドネシア・ジャワ義勇軍、PETA」責任者
ジャワを占領した後、入獄中の独立運動の指揮者、スカルノ(初代大統領)を釈放。その後逆に今村が死刑を求刑されると思われた際に、スカルノたちから身柄奪還の計画を打ち明けられるものの、「部下が無実の罪で死刑になっている時に、自分が逃げるわけにはいかない」と断る。
裁判では告発された罪状がすべて事実無根と分かって無罪となったものの、巣鴨にて10年の刑を受ける。その際に、部下達が服役している赤道近くのマヌス島で、部下たちと一緒に刑期に服したいと懇願運動を起こす。マッカーサーは感心し、「日本に来てから初めて真の武士道に触れた思いであった。すぐに許可するように命じた」と言わせた。
インドネシア・ジャワ義勇軍、PETAは、1942年12月、日本軍がインドネシア占領とともに大東亜戦争一周年を記念して、民間の総力を結集させて防衛に当たらせるというプートラ運動を開始。
4.000の支部を作り、56万の青年を団員として組織。その団員は最終的には130万人にも膨れ上がり、日本の歩兵操典に基づく日本式スパルタ教育が施される。訓練を終えた青年団は、地方防衛の警防団の団員となった。
「陸軍大将・今村均」土門周平 PHP研究所
「世界から絶賛される日本人」黄文雄 徳間文庫
工藤俊作 海軍中佐 雷(イカズチ)艦長
戦時中、しかも連日の交戦の中、敵の沈没艦から投げ出された422人の漂流イギリス兵を発見、、工藤が当時艦長を務める雷の乗組員がわずか220人であるにもかかわらずにイギリス兵を救助する。
そのイギリス漂流兵たちは、すでに丸一日ほど海にさまよって力尽きていたため、いつ敵の潜水艦などに攻撃されるかもしれない中、1番砲の操者を除いて全ての兵士に救助活動を指示。全力で敵兵の救助を行なった。工藤はその後、別の艦の艦長に配属され、雷は不幸にも敵の攻撃で撃沈、乗組員全員死亡。
その422人の中の1人、砲術士官であったサムエル・フォースは、その後出世してサーの称号も得る外交官となり、戦後61年たった2003年に始めて日本を訪れ、自衛隊観艦式に参列。当時のその事実を述べて、日本人に対する尊敬と感謝の念を表すために来日したと述べた。
その後工藤の墓が見つかり、サムエル・フォースは6年後に再び来日。工藤のお墓参りをする。
「My lucky life] サムエル・フォース著
柳川宗成 陸軍中尉
「インドネシア・ジャワ義勇軍、PETA」に日本の歩兵操典に基づく日本式スパルタ教育を施した現場の責任者。ジャカルタ西郊のタンゲランでは、「青年道場」と呼ばれるインドネシア特殊要員養成隊を開設し、51人のインドネシア青年の軍事訓練にあたる。
青年道場では、朝5時から10時まで軍事訓話、体育、実地訓練などが行われ、精神訓話では、「正直であれ」「勇気を持て」「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込んだ。
インドネシア・ジャワ義勇軍、PETAでは、幹部練成隊を編成、義勇軍幹部教育隊を発足して要員700名を教育、軍事訓練して、後の独立軍幹部を生み出した。
戦後は家族とともにジャカルタに移住して自宅で逝去。葬儀には教え子であったスハルト大統領や副大統領からの献花があった。死後は、「国(インドネシア)軍の父(パパ・ミリテール)」と愛称された。
当時、劣勢だった敵のオランダ軍に単身乗り込み、1時間にわたる直接交渉の後、オランダ軍司令官、テル・ポールデン中将を説得して全面降伏させるという武勇伝がある。
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
土屋競 インドネシア・ジャワ義勇軍、PETA中隊長
1968年、インドネシアのスハルト大統領が訪日した際に、スハルトの元教官であった土屋に...
「貧しい農民の子として生まれた私が、仮にも大統領の職に選ばれるようになったのは、すべてあなたの教育のお陰です」
「アジアにまかれた種子」 文芸春秋
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
国分正三 海軍大尉
海軍随一の暴れん坊との異名をとり、軍服を脱いでからは一浪人として、ビルマのラングーンで柔剣道を教え、妻は歯科医院を開業した。
タキン党の志士たちの資金と武器支援の要求に、台湾から内地、満州へと渡り、石原莞爾(かんじ)少将、「大亜細亜協会」の会長松井石根、山本五十六海軍次官と会い、30万円の軍資金を作る。
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
渡辺渡 陸軍少将(1896~1969)
マレーの「昭南興亜訓練所」で独立軍を育成。
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
前田精少将、稲嶺一郎軍政官、清水斉、金子智一、高杉晋一
インドネシアの独立に貢献したことで、国家最高勲章、「ナラリア勲章」を授与される。
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫
世界遺産ビガン地区を救った高橋大尉
ルソン島の北部に位置する世界遺産「ビガン歴史都市 Historic Town of Vigan」(下写真)。スペイン統治下で商業・貿易の拠点として栄え、当時築かれたユニークな街並みが広がる。
太平洋戦争当時、フィリピン各地の街はアメリカ軍による爆撃を受け壊滅状態となったが、ビガンの街並みだけは奇跡的に戦禍を逃れた。これには、ある日本人将校の残した一つの行動が大きく関わっている。
当時ビガンには日本軍の高橋大尉率いる守備隊が駐屯していた。高橋大尉は現地でフィリピン女性アデラ・トレンティーノ(Adela Tolentino)と結婚し可愛い娘もいた。大尉は現地に溶け込み、地域住民の信頼も得て、ビガン市民と友好な関係を築いていた。
やがて戦況が悪化し、アメリカ軍の砲撃・爆撃がフィリピン各地の街を次々と破壊していくと、ビガンを守る高橋大尉の部隊にも撤退命令が下された。大尉は親交のあったビガンのドイツ人神父クレカンフ司教(Fr. Joseph Klecamf, The Parish Priest of Vigan)に妻子を託し、次のように懇願して街を去って行った。
「私はこの地で結婚した愛する妻、愛する娘を残して行かねばなりません。アメリカ軍の砲撃によって、家族と暮らしたこの美しいビガンの街が破壊されることのないよう、我らが撤退したことをアメリカ軍に伝えてください。」
高橋大尉の真摯な願いに心打たれたクレカンフ司教は、広場には大きな白旗を掲げ、まさに砲撃準備に入っていたアメリカ軍に日本軍が完全に撤退したことを伝えると、ビガンの街は寸前のところで砲撃をまぬかれ、無益な破壊が行われることもなく米軍に占領された。
高橋大尉の部隊はその後の戦いで全滅し、大尉は帰らぬ人となった。クレカンフ司教に託された妻子は戦火の中を無事生き延び、戦後はしばらく妻アデラの実家で暮らした後、マニラ方面へ移り住んで、以後消息は途絶えてしまった。
2001年、元ビガン市長秘書官のアントニオ・フロレンティノ氏によれば、高橋大尉の娘がビガンに訪れたという。フロレンティノ氏は滞在先を訪ねたが、彼女は既に去った後だった。風のうわさでは、2001年当時、妻アデラはその頃既に亡くなっており、2人の娘はマニラに暮らしているという。
世界遺産「ビガン歴史都市」は今日もその姿をとどめ、スペイン統治時代の面影を色濃く残し、現代の我々にとって貴重な文化遺産として、その存在を確かに保ち続けている。ビガン市が属するイロコス州知事サベリャーノ(Savellano)氏は、次のように述べて高橋大尉の価値ある行動を讃えている。
「ビガンの街は、彼ら日本人の『愛』によって救われたのです。」