中国政府は、1937年12月の南京大虐殺30万人、東京裁判では20万人と言いますが、城壁に囲まれた世田谷区の5分の4ほどの面積の南京の人口は当時20万人くらいだったそうです。
「ようやく15万を超える小都市」
フランクフルター・ツァイトゥング、リリー・ベック記者
「15万人の南京市民が非難した安全区」 米国紙・ライフ
「陥落直前の人口は20万人」 南京警察長官、王固磐
「安全区の食糧確保に頭を悩ませており、
(20万人という) 人口の把握は正確だった」
国際委員会
「人口は22万1.150人」
国際委員会メンバー、南京金陵大学社会学教授スマイスが
多数の中国人を動員して調べた人口
国際連盟・国際委員会の調べによると、南京の人口は日本軍による占領以降急増しているそうです。
1937年12月 20万人
1938年 1月 25万人
1938年 8月 31万人
1938年12月 44万人
日本軍の入城(虐殺?) から1年で、人口が2倍以上になっています。1937年12月の20万人は、どこから現れたのでしょうか?
30万人というと、広島、長崎の原爆被害者、東京(他都市)の大空襲でなくなった方々の合計数に匹敵します。それだけの人間が亡くなって、今まで騒がれなかったのでしょうか? 死体はどこに消えてしまったのでしょうか?
当時の南京は土も凍てつく12月。そんな中でスコップとツルハシで遺体の埋葬作業を行なうには、屈強な人間が何千人で何日間もかかります。その人間をどうやって用意したのでしょうか?
もしその人間が中国人なら、彼らは虐殺されなかったのでしょうか?つまり、それだけの人数の埋葬が可能である人間が残っていれば、虐殺はなかったという矛盾になります。
東京裁判で提出された埋葬表によると、崇善堂という慈善団体が11万体、紅卍字会という慈善団体が4万体の遺体を埋葬したことになっていますが、崇善堂は南京陥落から翌年の8月まで活動を停止していたことが明らかになっています。
紅卍字会も、作業代欲しさに埋葬数を水増ししており、東中野修道亜細亜大教授は、実際の数字は1万4千と推定。それらは戦死した中国兵や処刑された便衣兵とみられます。古今東西、戦闘で兵士が死ぬことを決して虐殺とは言いません。
さらには、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林笑美子らのジャーナリストが陥落勅語の南京を訪れているものの、誰一人として虐殺やその痕跡を目撃した人はいません。
そして中国国民軍でさえ、南京陥落3ヶ月後の1938年3月の臨時大会で行った軍事報告で、南京の「失陥」には言及しているものの、「大虐殺」には触れていない。
同じ年の7月に蒋介石が発表した「友好国への声明」でも、南京ではなく広東空襲を非難しています。中国共産党の当時の記録や、毛沢東の演説にも「南京大虐殺」は存在しません。
「南京大虐殺」が国際的に非難されるのは、戦後の東京裁判が初めてです。つまり、東京裁判と呼ばれる、戦勝国が敗戦国をさばくというとんでもない東京リンチで、とにかく日本を悪者にしようとでっちあげられたお話のひとつです。
その後、北村稔立命館大学教授や、作家の(故) 鈴木明氏の取り組みで、中国側の史料のみを使った実証的研究も行なわれました。その結果、「南京大虐殺」の証拠とされてきた本の著者は国民党政府に金で雇われていたエージェントであることが分かりました。
オーストラリア国籍で英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員、ティンパーリーという人物です。南京に行ったことさえもない彼は、「戦争とは何か - 中国における日本軍の暴虐」という自分の本にそのことを書き、1938年7月にニューヨークとロンドンで出版しました。
英国の一流紙の特派員の本ということで信頼がよせられましたが、そこには「非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。その内約3割は決して兵士ではなかった」と書かれています。
埋葬証拠とは前述の紅卍字会の水増しした数字です。この4万人という数字を国民党は粉飾して30万人にふくらませたようで、南京大虐殺はこの本から始まったようです。
当時日本軍が南京に迫ると、蒋介石軍は南京放棄を決め、日本軍に宿舎や陣地として使われないように、南京城外半径約6kmの家屋を「清野作戦」と呼ばれるもので焼き払ったそうです(中国ではこの行為もも日本側の仕業と主張しています)。
蒋介石をはじめとする政府関係者や比較的裕福な住民は全て脱出。司令官の唐生智は日本軍の降伏勧告に応じずに、陥落前夜に将兵を置き去りにして敵前逃走しました。
南京に残ったのは比較的に貧困層で、欧米15人による国際委員会が管理する「安全区」に全て集められました。そこには軍服を脱いで民間人になりすました中国兵も大量に紛れ込んでいました。
別冊”正論” 2014年4月号